歴史
2015.07.01
横浜中華街は中華料理街じゃなかった?成り立ちを知ろう!
日本国内はもとより、東アジア最大の中華街という規模を誇る「横浜中華街
。約500店舗がひしめき合うエリア内で目立つのが中華料理店。観光ニッポンの目玉にもなっている有数のグルメタウンですが、歴史をひもとけば最初からそうだったわけではありませんでした。
150年あまりのあいだで世界的な有名グルメタウンへと成長した横浜中華街の歴史を振り返ってみましょう。
港近くの田んぼを埋め立ててできた外国人居留地が発端
黒船の来航で、それまで鎖国によって諸外国との交易を制限してきた江戸幕府が開国を余儀なくされた19世紀半ば。1857年の日米修好通商条約を皮切りに、イギリス、フランス、オランダ、ロシアとも通商条約を結び、日本各地に貿易港が開設されることが決まりました。そのひとつが横浜だったのです。
1859年6月の開港に際して、欧米の商人たちが正式に滞在できるようにするため、横浜には外国人居留地が設けられます。居留地はもともと横浜新田(よこはましんでん)と呼ばれていた地区で、江戸時代に沼だった場所を開墾して田んぼとして使っていました。幕府はこの土地を村人から接収し、あぜ道を残したまま埋め立てた田んぼの上に商館などを建築したのです。
居留地に住むことができるのは、原則として修好通商条約を結んだ国の人だけでした。しかし、日本語が不自由な欧米人だけではビジネスに支障をきたすため、彼らには通訳を雇う必要がありました。
そこで白羽の矢が立ったのが、漢字を使うことができて日本との交流も古くからあった中国出身者でした。
日本は中国と修好通商条約を結んでいなかったために、本来なら中国出身者は入国できませんでしたが、ビジネスの好機と判断した中国の商人たちが日本へ渡ってきたというわけです。
周囲と街路の向きが異なるのはなぜ?
田んぼを埋め立てたためジメジメとしていて、海からも近いので水害の危険もある新田跡地は、欧米人にはあまり気に入られなかったようです。そのため、中国出身者が生活をするためのまとまったスペースが提供されることになり、中華街が形成されるきっかけになりました。
実は、この新田跡地を利用した横浜中華街は、周囲とは街路の向きが異なっています。地図を見てみるとよくわかりますが、ほぼ45°ほど周囲と角度がずれているのです。
当時の横浜村では、海岸線を基準に街路が作られていましたが、新たに開墾された田んぼでは、日当たりを良くするために影ができにくい南北にあぜ道を作りました。これがそのまま居留地にも流用されたのです。
そして、南北に沿った街並みは、中国で重んじられている風水の観点から優れていたようです。そのような背景もあり中国出身者がこの地域を好んで住処としたことも、横浜中華街の発展に少なからず関係があるのかもしれません。
いつからグルメスポットになったのか?
世界のあちこちにも中国出身者が暮らす中華街(チャイナタウン)が存在しています。
特に規模の大きい東南アジアやアメリカでは、第一次産業に携わる人たちが居住していることが多かったようです。第一次産業では、特に労働人員を必要としていたからです。
それに対して日本の中華街では、最初からサービス業をはじめとする第三次産業のビジネスを立ち上げる人が多かったという特徴があります。これは、日本に居留を許された欧米人のビジネスをサポートするために雇われるという、特殊な事情によるものだったようです。
横浜開港の当初、中国出身者は、欧米人が営む貿易商の通訳や、日本人との折衝を担当する番頭役に就いていました。明治維新後、貿易が横浜の特権でなくなっても中華街は残りましたが、仕事内容は変化していきました。
中国出身者が得意とした代表的な職業に、料理、理髪、裁縫の3つがありました。いずれも刃物を使用する職業であったことから、この3つを総称して「三把刀(さんばとう)」と呼び、これに対して政府は営業許可を与えていたのです。
つまり、横浜中華街は最初から現在のような中華料理店がひしめき合うグルメタウンではなく、中国出身者に許された3つの得意な職業のうちのひとつが時代のニーズにマッチすることで残り、それが発展した街だったのです。