うんちく
2015.12.01
なぜチャーハンは炎の芸術とまで呼ばれるようになったのか?
横浜中華街でもシメの一品として人気が高いチャーハン。ご飯と具材をあわせて炒める、スピーディーでシンプルながら、料理人の腕が試されるメニューでもあります。身近なのに、実は奥深いチャーハンの世界。普段の食生活でもその味わい方を楽しんでみましょう。
五目チャーハンが揚州蛋炒飯と呼ばれるわけ
チャーハンの最も古い記録として残っているのは、随の宰相を務めた楊素(生年不明~606年没)が卵とご飯を炒めた料理を好んだというものです。この玉子チャーハンは、碎金飯(シュイジンファン)と名付けられていました。そして後には、揚州炒飯(ヤンヂョウチャオファン)と呼ばれるようになり、日本に伝わると五目チャーハンになりました。また、楊素が好んだという故事から揚州蛋炒飯(ヤンヂョウダンチャオファン)とも呼ばれています。蛋(ダン)とは卵のことです。
中国で米が食文化の中心になったのは、唐から宋の時代(7~13世紀)でした。チャーハンもこのころに一般に広まったと考えられています。チャーハンが生まれた背景には、それまで食料の煮炊きが土器と炉を用いたものだったのに対して、この時代にはキッチンにかまどが整備されるようになったことと、鉄器技術の進歩で調理道具が普及したことが大きく関係しています。加えて、たきぎよりも火力の強い石炭が一般でも用いられるようになり、炒めるという調理法が飛躍的に発達したことがあります。
焼く、煮る、蒸すという調理の選択肢に「炒める」が加わり、燃料がパワーアップすることで調理時間も短縮され、中国料理は劇的にバリエーションを広げることになります。その中心的な存在である米料理の、象徴ともいえるのがチャーハンなのです。
チャーハンは世界を巡っていた
チャーハンが日本に伝えられたのは、遣唐使などによって唐との交流があった7~9世紀ごろのこと。このときに伝えられたのは、ごま油を使って米を炊く調理法としてでした。平安時代の書物『倭名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』には、「油飯(あぶらいい)」という言葉と「ごま油で飯を炊く」という説明が記されています。
しかし日本では、ご飯を油で炊く調理法はあまり普及しませんでした。一方で、残りご飯を使って油で炒める調理法が編み出され、「焼き飯」として普及したのが、日本で主流となったチャーハンです。これに対して中国では、米を炊く時点からスープを使って味付けをし、炊きあがった味付けご飯をたっぷりの油で炒めるという方法が一般的です。
スープを使って米を炊くという調理法は、シルクロードを伝って西へと広がることになります。インドでは「プラーカ」と呼ばれていたスープで炊いた油飯は、トルコに伝わると「プラウ」や「ピラウ」と呼ばれるようになり、これがオスマン帝国によるヨーロッパ進出(15~16世紀)によって各地へもたらされるようになります。そして、フランスでアレンジされたものは「ピラフ」となり、スペインでアレンジされたものは「パエリア」となりました。
これとは別に、インド経由で東南アジアに伝わったプラーカは、「ナシゴレン」や「ビリヤーニ」として独自のエスニックなチャーハンへとアレンジされることになります。
アメリカ大陸へは17世紀ごろにフランス経由でスープ炊きの油飯が伝わり、これが「ジャンバラヤ」に発展しました。
チャーハンは中華鍋が生み出す新たなどんぶり文化
「ラーメンにチャーハン」といえば、日本の中華料理店の代表的なメニューにしてセットの元祖ともいうべき組み合わせ。しかし、現在では多彩になった中華料理メニューの動向を反映して、あんかけチャーハンや、カニ、牛肉など高級素材を使ったチャーハンもポピュラーになっています。
日本では、ご飯に具材を乗せて完成させる「どんぶり」という食文化が発達しました。そこに炒めるというアレンジを加えることで、チャーハンもまたどんぶり文化とは違った、ご飯と具材の一体感を味わうことができる食文化へと進化し続けています。まさに炎の芸術と呼ばれるにふさわしい、多大な影響力と可能性を秘めたメニューであり、調理法といえるでしょう。
中華鍋の音が鳴り響く横浜中華街を、そんなチャーハンの歴史とパワーに想いを馳せながら訪ね歩くのも一興ではないでしょうか。