歴史
2016.02.01
横浜市歌を作詞したのは、あの文豪?
皆さんは故郷やお住まいの市の「市歌」を歌えますか? 長く住んでいる地であっても、市歌がどんな歌であるかを知らない方も多いのではないでしょうか。なんと横浜の小学校では、校歌と一緒に横浜市歌を歌うところもあるのだとか。横浜市歌を歌えるのはハマっ子の証ということで、横浜市歌の歌詞の内容に迫りたいと思います。
歌詞を作ったのは誰?
横浜出身の人々にとって、大変なじみ深い横浜市歌。小学校時代に校歌とセットで歌われることが多く、ほとんどの子どもたちが歌詞を見ることなくスラスラと歌えるのだそうです。そんな多くの横浜市民に愛される横浜市歌ですが、実はその歌詞を作ったのは、『舞姫』『高瀬舟』などの名作で知られる森鴎外。夏目漱石とともに明治時代を代表する偉大な文豪が、なぜ横浜市歌を作詞したのでしょうか。
横浜市歌は、明治42(1909)年に行われた横浜港の開港50周年式典の際にはじめて披露されました。記念すべき式典に向けて市歌の作成が決まった際、当時の横浜市長が東京音楽学校(現在の東京藝術大学)に作成を依頼したところ、当時の文壇で目覚ましい活躍を見せていた森鴎外が紹介されました。作曲者には同学校助教授で作曲家の南能衛(よしえ)が選ばれ、彼が旋律を作り、そこに森鴎外が歌詞をのせて完成したといわれています。
どんな名所が登場する?
長きにわたって多くの市民に歌い継がれる横浜市歌ですが、日本屈指の文豪が手がけた歌とあれば、その歌詞が気になるところですね。歌詞のなかには、一体どんな横浜の風景が描かれているのでしょうか。
まず気になるのがこのフレーズ。「されば港の数多かれど この横浜にまさるあらめや」。歌の舞台となっているのは、どうやら横浜のシンボル・横浜港のようです。この歌詞を前後の内容も踏まえつつ現代語で表すと、「島国である日本には港の数が多いけれど、横浜に勝る港はないでしょう」といった訳になります。横浜港以上の港は日本にない、日本を誇る港だと歌う歌詞に、ハマっ子の誇りを感じますね。
横浜港から栄えた横浜
次に続く歌詞からは、横浜の歴史を読み取ることができます。「むかし思えば とま屋の煙 ちらりほらりと立てりしところ」。決して豪華とはいえない、苫葺き(茅などを荒く編んだむしろを屋根にした)の粗末な民家から細々と煙が上がっていたような地域が、開港により大いに発展していったと歌われています。
このように、横浜にとって象徴的であり、発展のシンボルにもなった横浜港。その開港の由来は、少し意外なものでした。安政5(1859)年の日米修好通商条約を機に神奈川での開港が提案されましたが、当時の候補地は横浜ではなく神奈川。交通量の多い東海道沿いでの開港は、外国人とのトラブルが懸念されたため、当時は小さな漁村であった横浜での開港が進められました。そして、政府が横浜港の発展に尽力したことで、日本一の国際貿易港にまで成長したのです。
歌詞はこうして締めくくられます。「今はもも舟もも千舟 泊るところぞ見よや 果なく栄えて行くらんみ代を 飾る宝も入りくる港」。そこに描かれているのは、数え切れないほど多くの船が停泊している横浜港。そして、果てしない繁栄が確信されています。現在の横浜港を知らない森鴎外が、まるで未来を予言したかのようです。
街に流れる横浜市歌
横浜への強い誇りが感じられる横浜市歌ですが、実は、街のあちこちで聴くことができます。湘南台駅を除く市営地下鉄39駅の構内BGMとして流れているので、観光中に自然と耳にする機会があるでしょう。また、横浜DeNAベイスターズのホームラン・勝利のファンファーレとしても使われています。さまざまな場面で用いられ、子どもの頃から横浜市民に親しまれている横浜市歌。偉人が作った名曲をぜひ聴いてみてくださいね。