歴史
2017.01.05
横浜市で一番有名な公園、山下公園
横浜中華街東門から歩いて5分もかからない場所にある山下公園。テレビや映画の撮影で使われることも多く、横浜市で一番有名な公園といえるでしょう。
横浜市民だけでなく、観光客や近郊の人々から憩いの場として愛され続ける山下公園ですが、一体なぜ造られることになったのでしょうか。その歴史を紐解いてみます。
関東大震災の復興事業として造成された山下公園
1930年3月に開園した山下公園。造成の理由は、関東大震災の復興シンボルを造るためでした。
しかし開園までの道のりは簡単ではなかったようです。何年もの月日をかけて横浜市内に残った瓦礫を集めて埋め立てを進め、その後に上部を良質な土で覆うという作業を行い、やっと完成しました。
横浜港の一部を埋め立てて造られたことから、山下公園のほぼ中央部に位置する沈床花壇(西洋庭園の形式の一種。地面を掘り下げ、周囲よりも一段低い位置に設けた花壇)のあたりは、当時船溜まりでした。国の重要文化財であり博物館船として知られる氷川丸の横には今も小さな橋が残されており、かつての面影を偲ぶことができます。
開園5年後の1935年3月には、山下公園を舞台に復興博覧会が開催されました。全国の都道府県をはじめとした55もの団体が出品。船溜まりに鯨を泳がせたりするなどして、多くの人を驚かせ、楽しませたといいます。
昭和後期には今の形が完成
しかし戦後の横浜に待ち受けていたのは、米軍による日本進駐です。多くの土地や建物が占領基地として接収されました。山下公園も例外ではありませんでしたが、1954年から段階的に解除され、1961年には山下公園の象徴ともいえる氷川丸が係留。同年に再整備が完了し、ほぼ現在の姿に生まれ変わりました。
再整備の最大のポイントといえるのが、「横浜人形の家」の設計を手がけた坂倉建築研究所の協力で整備された世界の広場や水の階段と呼ばれる大階段です。世界の広場は、中央にある噴水から6つの大陸へ向かってのびる道がデザインされています。羅針盤のような印象を持つ、とても広がりのある空間です。
水の階段は、バルセロナのグエル公園を彷彿とさせるカスケード(人工的に造られた、階段状に連なる滝)が特徴で、特に夏の暑い日には涼を呼ぶスポットにもなっています。
横浜港に面した好立地にありながら緑豊か、都会の中でも自然を感じられる山下公園は、関東大震災を機に生まれ、戦争を経て今の形へと姿を変えたのです。
かもめの水兵さんに、赤い靴はいてた女の子
山下公園にはさまざまな歴史が詰まっており、その数だけ記念碑などが立っています。代表的なものを挙げてみましょう。
まず、サンディエゴ市から寄贈された「水の守護神」です。山下公園の中央入口から園内に足を踏み入れると目の前に広がる中央広場。その真ん中にある噴水の中央に立っています。誰もが一度は歌ったことがあるといっても過言ではないくらい有名な童謡「かもめの水兵さんの歌碑」は、中央広場の脇にあるので、「水の守護神」にたどり着けばすぐに発見できるでしょう。
同じく童謡「赤い靴はいてた女の子像」は見つけられないという人もいるようです。広々とした芝生広場の中にひっそりと佇んでいるので、チェックしてみてください。ちなみに「赤い靴はいてた女の子像」は、横浜駅の中央通路にも設置されているので、横浜市では2つの「赤い靴はいてた女の子像」を見ることができます。
また、日本大通り駅側にあるレストハウス近くには、「インド水塔」を見ることができます。これは、横浜市民が関東大震災で被災した在日インド人に救済支援をおこなったことへの感謝の証として、また同胞の慰霊として在日インド人協会から贈られたものです。水塔とはインド式の水飲み場のこと。装飾がとても美しい塔ですよ。
季節によっても表情を変える山下公園は、バラの名所としても知られています。2016年にリニューアルオープンした「未来のローズガーデン」は、つるバラやスタンダード仕立てのバラによって、約190種2650株という多様なバラが楽しめます。
歴史と魅力が詰まった公園
横浜市を代表する公園として、また横浜中華街周辺の観光スポットとして、多くの人が山下公園を何度も訪れているでしょう。しかし、あまりに身近すぎて隅々まで見ていないという方も多いのではないでしょうか。
横浜中華街で食事を楽しんだ後に、見どころ満載の山下公園を散歩してみてください。腹ごなしの運動にもなるでしょう。