知識
2017.05.12
横浜中華街で「端午節」を楽しむ
「端午節 たんごせつ」は、中国の節句の事で、「牛=ご」は十二支で暦を考えた時に、
「牛の月=5月」にあてはめられ、5月のはじめの節句とされています。
中国ではこの「端午節」は、三大伝統節句として国中が重要視している大切な祝日で、その日は3連休にしている位の節句です。日本の男の子の日とされている、5月の節句の起源は中国から来ているのではないでしょうか?
■日本の端午の節句と言えば
日本では奈良時代以降頃から、端午の節句として定着している「こどもの日」と呼ばれ、お祝いされる5月5日は、端午の節句にあたります。江戸時代に入ると、国をまとめていた勢力が武家に変わりました。5月に花が咲く菖蒲(しょうぶ)と、尚武(しょうぶ)が同じ読み方ということで、武家の家では祝われるようになりました。兜や鎧を飾り、鯉のぼりを揚げるのは、この武家のお祝いの仕方の流れをくんでいるのです。
端午の節句である5月5日は、家の後継ぎとして生まれた男の子の成長を祈ると共に、一族の繫栄を願う為の重要な尚武の節句として、重要な行事として伝えられてきました。
■「端午節」とは
中国で言われる「端午節」とは、旧暦の5月5日に戦国時代に生きたと言われている、楚の国の詩人である屈原が、汨羅(べきら)川へ身を投じて自殺したことが関係していると言われています。
この屈原という男性は、楚の国の政治家でした。正義感が強く、愛国心が強く、そのことから様々な人から、多くの人望を集めていました。それとは逆に、正義感や愛国心が強い事から、自分の信条は曲げないことで、王朝に忠告などを行っていたが、聞き入れられないことも多くあったと言われています。
また、人気がある屈原の同僚にはそれを良く思っていない者もいて、そういった人の嫉妬心から生まれた陰謀により、その地位を追いやられました。中国古典文学の中に、名作と言われる「楚辞」の中に、「離騒」は、屈原が国を憂いて、儚む様子が描かれています。そこで描かれている主人公と同じ様に、屈原は汨羅(べきら)川へ身を投げ、入水自殺したと言われているのです。その屈原の遺体を探したのですが、見つからなかったと言われています。
人々は屈原の身体が川の魚に食べられるのは可哀そうだ…ということで、その川に「ちまき」をまいて、屈原の遺体を食べられない様にしたのが始まりと言われています。また、そのちまきを巻くことと同時に、多くの船を汨羅(べきら)川へ出して、太鼓など大きな音を立てて、魚を追い払ったり、川で船のレースを行ったりという様な習慣が生まれました。
■5月5日は横浜中華街でお店それぞれの「ちまき」が味わえる日
中国では旧暦の5月5日、「端午節」に「ちまき」を食べる習慣があります。「ちまき」とは、お米やもち米をしいたけやタケノコなどの具材と一緒に、葉っぱで包んで、茹でたり、蒸したりして調理する、中国版おにぎりの様な食べ物です。
葉っぱで包んで調理することで、植物の灰汁が防腐剤代わりとなる様で、中国にはかなり昔から作られている保存食です。このちまきを、「端午節」に川にまいたりするので、この日に食べられる食物となりました。
また、この同じ時期には、中国では薬草を摘むという習慣がありました。健康を祈願する為に行われる習慣で、そのなかでも「よもぎ」や「菖蒲」という薬草には、邪気を払うパワーがあると言われています。そのよもぎで人形を作って飾ったり、菖蒲酒を作ったりします。
日本では、5月5日にはかしわの葉で包んだよもぎもちを食べたり、菖蒲を飾ったりしますよね?
菖蒲の節句、そうです端午の節句です。
このようなことから、中国では旧暦である5月5日のこどもの日には、ちまきを食べたりしてこの日を祝う習慣が今でも続いているということです。その5月5日の「端午節」には、横浜中華街ではこの習慣にちなんで、お店独自のちまきが食べられます。
ちまきも地方によって、具材が違ったりするので、中国ではご当地ちまきなんて呼ばれ方もしています。当然中華街でもそれぞれの出身の地域によって、ちまきの種類も様々ですので、「端午節」の食べ歩きメニューにはぜひ「ちまき」をおすすめしています。皇朝でもオリジナルのちまきをご用意して、お待ちしております。